私は今、れむという睡眠の中にいるようである。
一、あのひと
からりと抜けるような蒼天に、細い紫煙をくゆらせる。すうと肺に酸素を取り込めば、くわえた葉巻から独特の苦味とつんとしたメンソールの匂いが口内に広がった。それを味わうのも束の間、呼吸器の働きをそのままに利用して秋風の中に煙を吐き出す。
たしか、つい1ヶ月前には喫煙する女性を軽蔑さえしていたのに、ひと度男に惚れるとこうである。
わたしはかれが煙草を吸う仕種がすきなのだった。少し節立ったあの手が、あの日わたしの掌を握ってくれたのだと思うと、それだけでぞくぞくする。
最近では、かれに似た背格好や髪の色、ちょっと曲がった背筋や服装、高いとも低いともつかない声、そのどれもに敏感に反応してしまうくらいで、自分でもおかしいくらいにのめり込んでしまっている。
ふしぎなものだ。そうまでしているにもかかわらず、本当にかれを見付けたときには怖じ気付いて声もかけられないというのだから。
二、夏の前の日
「待って、待って」
息を切らしながら自転車を押して沙智子を追いかける優子が叫ぶ。
「さっちゃん、なんでそんなに元気なのよお」
まだ自転車から降りようとしないかの女を見て、ため息の数もひとつ増えた。沙智子はあははと笑いながら、額に流れる汗も気にせずに立ちこぎで坂道を登っていく。
そろそろ夏がやってくる。
雨の数は日に日に多くなり、今日のようにきれいな夕陽が見られる日も減ってきた。昼間はからっと晴れ上がっていたためか、湿気もなくてさわやかな夕暮れだ。
真っ赤に染まった街を見ようと、ふたつのセーラー服は小高い丘を目指す。上りきってから食べるつもりだったアイスクリームは、コンビニの袋の中でじわじわと溶けつつあるようだ。
「ほら、ゆっこ、はやくはやくう」
笑いながら沙智子が振り向くと、つられて自転車もよろめいた。バランスを取ろうとすればするほどふらふらとハンドルがあらぬ方向へと向いて、やがて乗っていることを諦めざるを得なくなった。
「あーあ、ゆっこが早く来ないからあ」
あははとまた笑って、ふたりで並んで歩く。暑さのせいか、夕陽のせいか、どちらも真っ赤な頬をしていた。
三、追悼式
目が覚めたら、視界に膜がかかっていた。例えるならば、白い布が目の前にかぶせられているような感じだ。
そういえばやけにひっそりと静まり返っている。起き上がるのをやめて耳を澄ましてみたら、突然耳元ですすり泣きが聞こえた。
「ああ、ついにゆき子まで死んでしまった。ゆき子まで死んだ。あたしより先に、あたしより先に」
ゆりえの声だ。わたしは起き上がらないのではなくて、起き上がれないのだ。布がかかっているようではなくて、実際覆われているのだ。
ではこの光景はなんだろうか。わたしは何を聞き、何を見ているのだろうか。
わたしは何なのだろうか。
問うすべもなく、答えもなく、ただ枕元でゆりえの泣く声ばかりがしていた。このささやかな弔いは、いつまで続くのだろうか。
四、夜
かちり。火を点けた。
もう夏があちこちで姿を見せているにもかかわらず、風呂上がりの濡れた髪の毛を夜風にさらすと、まだ少し寒い。ベランダから見える景色は夜闇にのまれるわけでもなく、街の明かりにうっすらと照らされている。
生きているものの気配はどこにもない。もしかしたら、今この世の中に存在しているのは自分だけではなかろうか。
満月は雲の向こうに隠れていて、縁だけが白く彩られている。まぶしい金星に向かって届かない煙を吐いた。
あいかわらず、モノクロの世界。
風もないここでぼんやりと物思いにふけり、やがて灰を落としきるとかの女は部屋へとかえっていった。明日も早い。煙草の香りをまとったままでベッドにもぐり込み、瞼を降ろした。
五、ガラスペン
注文していたガラスペンがようやく届いた。透き通ったガラスをひねった繊細な造りで、溝には白い塗装がなされている。インク止めの珠の中には気泡がいくつか込められており、室内でもあかりを反射してきらきらとひかる。宝石がついているみたいだ。
むかし、ファンタジーの本を読んで以来、主人公が手紙を書くときに使っていたガラスペンに憧れていた。当時のわたしにとっての数千円はものすごい大金で、それでものを書くことなんて夢のまたゆめでしかなかった。
はじめてのバイトの給料を握り締め、わくわくしながら近所の百貨店に向かったのだが、いまどきガラスペンなんてそうそう売れないのだろう、ほとんど種類がなかった。しかも、いくつか品切れになっている。どうしても妥協したくなくて何度も試し書きをさせてもらい、カタログを見てデザインを選び、いちばん書き味がよかったメーカーのもので、いちばんすてきな造形のものを注文してきたのだ。
何度も書かせてはもらったが、やはり自分のものとなると感慨が違う。机の上をきれいに片付けると、この日のために選んでおいたブルーグレーのインクを引き出しから取り出した。
どきどきしながらペン先をひたす。つつ、と溝にインクが伝うのを見ると書きたい気持ちがはやる。インクがきれるのを待って、紙にペンを載せる。そこで、何を書くかを決めていなかったことにようやく気付いた。
いろいろ考えていたはずなんだけどなあ。
おもわず独り言をもらしていたら紙の上でインクがにじんできたので、あわててペンを持ち上げた。すてきな詩の一篇でも書けたらかっこいいものだが、あいにくと文才が足りてない。
あんまり考えているとインクが乾いてしまうので、とりあえず最近はやっている歌の詞を書いてみることにした。なんてナンセンスなんだろう。すっかりまいってしまった。
七、酒
雨宿りのつもりで店に入ったのだが、すっかり飲みすぎてしまったらしい。小ぢんまりとしたアメリカンスタイルのバーで、様々なネオンや看板が所狭しと並んで主張をしている。値段は少々高かったのだが、濡れて歩くことを思えばまったく構わない。
今日はマスターが不在らしく、若いバーテンの青年が相手をしてくれた。深夜一時をまわってからの入店だったが、嫌そうな顔をするわけでもなく、いろいろな話を聞かせてくれる。平日なので客もまばらで、とても居心地のいい空間だ。ひさびさにここまで飲んでしまったのは、そのせいもあるかもしれない。
残っていたジンバックを飲み干すと、からん、とグラスの中で氷が音を立てた。
「サナさん、まだ飲みますか」
バーテンの青年――ユースケというらしい――は尋ねた。
「そろそろ四時がきますよ」
そういえばもうそんな時間か。いつの間にか、店内には誰もいなくなっている。
「そうね、じゃあ、あと一杯だけ。ティフィンオレンジをお願い」
心地のよい酩酊の中でうとうとしながら言った。カウンターの脇に置かれた水槽から、ピラニアがこちらをじっと見ていた。
七、そして
今日と明日が、いや、昨日と今日が接吻けする頃のことである。わたしはペンを持ったままである。
兎が夕刻に、氷の爪でゆきのという女を殺したらしい。わたしは兎も知らぬ。ゆきのというのも知らぬ。誰に訊いたわけでもないが、ただその事実だけは知っている。手にしたペンでどこへともなく書きつける。意思とは無関係である。
かれはどこへ行ったのか。そもそもかれとはどいつのことだったろう。ぼんやりと思考がうつろっている。
わたしはいつの間にか落ちていることに気付いた。両側を断崖が上へ下へと無限に伸びているのに明るい。よくよく見れば、なにか箱らしきものの中にいる。なぜ崖に囲まれていることが分かるのかは知らぬ。ただそのことも書きつける。そうして、着地の瞬間に飛び上がればよかろうと、一筆付け加えた。
しかし、いよいよ地面に到達するという頃になって、わたしを残して場面だけが擦り変わった。なつかしい木の匂いがこもった、少し湿っぽい教室。隣の席にはゆきのが座っている。見たこともない女だが、なぜかゆきのだと分かった。
「なぜそう必死なの」
わたしが机に書きつけている様子を珍しそうに見ながらゆきのは訊いた。そういえば双方とも制服を着ていない。そのことをまた書きながら、わたしの身体は口を開いた。
「あす、提出なのです」
ゆきのは笑っていた。わたしはそのことも書きつけていた。もちろん意思とは関係なしに。
ペンを持った手が書いた最後の言葉に、ようやくわたしははっとした。どうやらわたしは、れむという睡眠の中にいるようである。
そこで目が醒めた。
からりと抜けるような蒼天に、細い紫煙をくゆらせる。すうと肺に酸素を取り込めば、くわえた葉巻から独特の苦味とつんとしたメンソールの匂いが口内に広がった。それを味わうのも束の間、呼吸器の働きをそのままに利用して秋風の中に煙を吐き出す。
たしか、つい1ヶ月前には喫煙する女性を軽蔑さえしていたのに、ひと度男に惚れるとこうである。
わたしはかれが煙草を吸う仕種がすきなのだった。少し節立ったあの手が、あの日わたしの掌を握ってくれたのだと思うと、それだけでぞくぞくする。
最近では、かれに似た背格好や髪の色、ちょっと曲がった背筋や服装、高いとも低いともつかない声、そのどれもに敏感に反応してしまうくらいで、自分でもおかしいくらいにのめり込んでしまっている。
ふしぎなものだ。そうまでしているにもかかわらず、本当にかれを見付けたときには怖じ気付いて声もかけられないというのだから。
二、夏の前の日
「待って、待って」
息を切らしながら自転車を押して沙智子を追いかける優子が叫ぶ。
「さっちゃん、なんでそんなに元気なのよお」
まだ自転車から降りようとしないかの女を見て、ため息の数もひとつ増えた。沙智子はあははと笑いながら、額に流れる汗も気にせずに立ちこぎで坂道を登っていく。
そろそろ夏がやってくる。
雨の数は日に日に多くなり、今日のようにきれいな夕陽が見られる日も減ってきた。昼間はからっと晴れ上がっていたためか、湿気もなくてさわやかな夕暮れだ。
真っ赤に染まった街を見ようと、ふたつのセーラー服は小高い丘を目指す。上りきってから食べるつもりだったアイスクリームは、コンビニの袋の中でじわじわと溶けつつあるようだ。
「ほら、ゆっこ、はやくはやくう」
笑いながら沙智子が振り向くと、つられて自転車もよろめいた。バランスを取ろうとすればするほどふらふらとハンドルがあらぬ方向へと向いて、やがて乗っていることを諦めざるを得なくなった。
「あーあ、ゆっこが早く来ないからあ」
あははとまた笑って、ふたりで並んで歩く。暑さのせいか、夕陽のせいか、どちらも真っ赤な頬をしていた。
三、追悼式
目が覚めたら、視界に膜がかかっていた。例えるならば、白い布が目の前にかぶせられているような感じだ。
そういえばやけにひっそりと静まり返っている。起き上がるのをやめて耳を澄ましてみたら、突然耳元ですすり泣きが聞こえた。
「ああ、ついにゆき子まで死んでしまった。ゆき子まで死んだ。あたしより先に、あたしより先に」
ゆりえの声だ。わたしは起き上がらないのではなくて、起き上がれないのだ。布がかかっているようではなくて、実際覆われているのだ。
ではこの光景はなんだろうか。わたしは何を聞き、何を見ているのだろうか。
わたしは何なのだろうか。
問うすべもなく、答えもなく、ただ枕元でゆりえの泣く声ばかりがしていた。このささやかな弔いは、いつまで続くのだろうか。
四、夜
かちり。火を点けた。
もう夏があちこちで姿を見せているにもかかわらず、風呂上がりの濡れた髪の毛を夜風にさらすと、まだ少し寒い。ベランダから見える景色は夜闇にのまれるわけでもなく、街の明かりにうっすらと照らされている。
生きているものの気配はどこにもない。もしかしたら、今この世の中に存在しているのは自分だけではなかろうか。
満月は雲の向こうに隠れていて、縁だけが白く彩られている。まぶしい金星に向かって届かない煙を吐いた。
あいかわらず、モノクロの世界。
風もないここでぼんやりと物思いにふけり、やがて灰を落としきるとかの女は部屋へとかえっていった。明日も早い。煙草の香りをまとったままでベッドにもぐり込み、瞼を降ろした。
五、ガラスペン
注文していたガラスペンがようやく届いた。透き通ったガラスをひねった繊細な造りで、溝には白い塗装がなされている。インク止めの珠の中には気泡がいくつか込められており、室内でもあかりを反射してきらきらとひかる。宝石がついているみたいだ。
むかし、ファンタジーの本を読んで以来、主人公が手紙を書くときに使っていたガラスペンに憧れていた。当時のわたしにとっての数千円はものすごい大金で、それでものを書くことなんて夢のまたゆめでしかなかった。
はじめてのバイトの給料を握り締め、わくわくしながら近所の百貨店に向かったのだが、いまどきガラスペンなんてそうそう売れないのだろう、ほとんど種類がなかった。しかも、いくつか品切れになっている。どうしても妥協したくなくて何度も試し書きをさせてもらい、カタログを見てデザインを選び、いちばん書き味がよかったメーカーのもので、いちばんすてきな造形のものを注文してきたのだ。
何度も書かせてはもらったが、やはり自分のものとなると感慨が違う。机の上をきれいに片付けると、この日のために選んでおいたブルーグレーのインクを引き出しから取り出した。
どきどきしながらペン先をひたす。つつ、と溝にインクが伝うのを見ると書きたい気持ちがはやる。インクがきれるのを待って、紙にペンを載せる。そこで、何を書くかを決めていなかったことにようやく気付いた。
いろいろ考えていたはずなんだけどなあ。
おもわず独り言をもらしていたら紙の上でインクがにじんできたので、あわててペンを持ち上げた。すてきな詩の一篇でも書けたらかっこいいものだが、あいにくと文才が足りてない。
あんまり考えているとインクが乾いてしまうので、とりあえず最近はやっている歌の詞を書いてみることにした。なんてナンセンスなんだろう。すっかりまいってしまった。
七、酒
雨宿りのつもりで店に入ったのだが、すっかり飲みすぎてしまったらしい。小ぢんまりとしたアメリカンスタイルのバーで、様々なネオンや看板が所狭しと並んで主張をしている。値段は少々高かったのだが、濡れて歩くことを思えばまったく構わない。
今日はマスターが不在らしく、若いバーテンの青年が相手をしてくれた。深夜一時をまわってからの入店だったが、嫌そうな顔をするわけでもなく、いろいろな話を聞かせてくれる。平日なので客もまばらで、とても居心地のいい空間だ。ひさびさにここまで飲んでしまったのは、そのせいもあるかもしれない。
残っていたジンバックを飲み干すと、からん、とグラスの中で氷が音を立てた。
「サナさん、まだ飲みますか」
バーテンの青年――ユースケというらしい――は尋ねた。
「そろそろ四時がきますよ」
そういえばもうそんな時間か。いつの間にか、店内には誰もいなくなっている。
「そうね、じゃあ、あと一杯だけ。ティフィンオレンジをお願い」
心地のよい酩酊の中でうとうとしながら言った。カウンターの脇に置かれた水槽から、ピラニアがこちらをじっと見ていた。
七、そして
今日と明日が、いや、昨日と今日が接吻けする頃のことである。わたしはペンを持ったままである。
兎が夕刻に、氷の爪でゆきのという女を殺したらしい。わたしは兎も知らぬ。ゆきのというのも知らぬ。誰に訊いたわけでもないが、ただその事実だけは知っている。手にしたペンでどこへともなく書きつける。意思とは無関係である。
かれはどこへ行ったのか。そもそもかれとはどいつのことだったろう。ぼんやりと思考がうつろっている。
わたしはいつの間にか落ちていることに気付いた。両側を断崖が上へ下へと無限に伸びているのに明るい。よくよく見れば、なにか箱らしきものの中にいる。なぜ崖に囲まれていることが分かるのかは知らぬ。ただそのことも書きつける。そうして、着地の瞬間に飛び上がればよかろうと、一筆付け加えた。
しかし、いよいよ地面に到達するという頃になって、わたしを残して場面だけが擦り変わった。なつかしい木の匂いがこもった、少し湿っぽい教室。隣の席にはゆきのが座っている。見たこともない女だが、なぜかゆきのだと分かった。
「なぜそう必死なの」
わたしが机に書きつけている様子を珍しそうに見ながらゆきのは訊いた。そういえば双方とも制服を着ていない。そのことをまた書きながら、わたしの身体は口を開いた。
「あす、提出なのです」
ゆきのは笑っていた。わたしはそのことも書きつけていた。もちろん意思とは関係なしに。
ペンを持った手が書いた最後の言葉に、ようやくわたしははっとした。どうやらわたしは、れむという睡眠の中にいるようである。
そこで目が醒めた。