Luinrhofal

朝の電車

 一、遅刻

 案の定、目覚まし時計が時間通りに起こしてくれることはなく、予定より半時も過ぎてから母親にたたき起こされた。もう少し早く、とひとりごちてみるが、夜更かししていたのは自分だ。あわてて準備を整えると、朝食にと買っておいたサンドウィッチを鞄に詰めて家を飛び出した。やはり予定よりも幾分か遅い電車に駆け込んで、なんとか間に合いそうだ、と溜め息をつく。
 それにしても、なんだろう、この世界は。時計は絶対神であり、人間は時計に区切られた時分を守らなければならない。人間が時を定義したというのはもはや過去の話である。いまや、時を刻む時計によって、人間は支配されているのである。
 しかし、いくらそんなことを思ってみても、この上下関係が覆ることはないだろう。あるとすれば、それは人間が人間であることを捨て、自然に還るときだ。携帯で今日の天気を調べながらそんなことを考える自分は、なんて矛盾しているんだろうか。
 窓の向こうにふと視線を投げてみたら、到底雨など降りそうもない青空が広がっていた。ああ、自分の行動はなんて無意味でばかげているんだろうか。なんとなく、少しだけ、救われたような心地がした。
 次の駅で下車だ。

 二、蝶

 朝露がまだ乾かない頃、かれは電車に乗り込んだ。春はまだ浅く、風はほんのりと冷気をはらんでいる。
 車内には同じ学校のブレザーを着た生徒がちらほらといたが、ほとんどが見知らぬ顔だ。入学したての後輩たちだろう。二本あとの快速電車でも間に合うことを知っている上級生は、大概そちらを利用する。ラッシュが苦手なかれのような生徒がこちらに乗る。
 ほかに乗っているのは、揃って眠たげな大学生らしい数人と、新聞や雑誌を読んでいるサラリーマンがいくらか。席はほとんど埋まっていたが、立っているのはわずか数人だ。
 昨日の夜更かしのせいでかれがうとうとしていると、次の駅で中年の女性が乗り込んできた。立派な腹回りをしており、触り心地がよさそうだ。かれの前の吊革を持ったので、その腹が座っているかれの目の高さとちょうど同じになった。
 胸に大きなロゴの入ったグレーの T シャツを着ており、黒と黄色い模様のスカートをはいている。えらくサイケな柄だと思ったあとで、かれはわあと声を上げそうになった。すんでのところで咳払いをしてごまかす。
 蝶だった。大量の揚羽蝶がびっしりと隙間なく集まって、スカートを形作っているのだった。ご丁寧に、電車の揺れに合わせてゆらゆらと動く。みな羽を開いたままで、裾の方だけが時折閉じる仕種を見せる。
 周りに目配せするように見回してみたが、誰も気付いている様子はない。
 眠気もすっかり覚めてしまい、かれは好奇心に満ちた目でじっとその様子を観察していた。すると唐突に裾の一羽がその「スカート」から離れて舞い上がった。しばらくひらひらと心もとなく飛んでからかれの隣の大学生が読んでいる本に羽を休めたのだが、やはり気付く様子がない。
 そうしているうちにその中年女性は下車していってしまった。一羽の揚羽蝶だけがそこに残っていた。

 三、電子機器

 シャカシャカ、隣の女子高生のヘッドフォンから漏れる音がうるさい。
 真夏の満員電車の熱気は、クーラーの冷気などへともない様子だ。ワイシャツの背中がしっとりとしめっていて気持ちが悪い。世間ではクールビズだのなんだのがはやってはいるが、接客をなりわいとしているおれにはまったく関係のないことだ。上着もなし、ネクタイもなしで客の前になど出られるわけがない。
 目の前に座っているサラリーマンは、ノーネクタイで携帯ゲーム機をいじっている。この違いはなんだろう。暑いと口にすると、なんだか負けたような気分になる。
 早くこの蒸し暑い閉鎖空間から抜け出したいのだが、向かう先は快速の止まらない駅だ。駅ごとにたびたび止まる電車に苛立ちが募る。いかんいかん、取引をうまくこなすためには、まず自分が落ち着いていなくてはならないのに。
 気を紛らわせるために携帯電話を取り出した。たまった迷惑メールを破棄してしまうと、一件の新着メールが残った。差出人は高校のころの同級生。
 もう数年連絡を取っていなかったのだが、いったい何の用だろう? ちょっとどきどきしながら、キーをプッシュした。

 四、現実逃避

 ランドセルを背負った子どもたちの騒ぐ声で、はっと気がついた。ほとんど眠っていた頭が急に目覚めていく。それどこか、血の気が引いてちょっと冷たい。
 窓の外が、見慣れない景色に変わっていた。それに、普段の通学時には見ることのない私立小学校の緑色の制服。間違いなく下車する駅を通り過ぎてしまっていた。
 乗っているのは運悪くも快速列車。次の停車駅はあと三駅先。携帯を開いて時間を確認してみたが、そこでUターンしたところで、授業は半分以上終わってしまっているだろう。祐介は深いため息をついて、友人に欠席の旨をメールした。
「火曜の授業はこれひとつなのに」
 思わず呟くと、対面に座っていた年配の女性にちらりと見られたので、かれはごまかすように咳払いをした。老女は眉ひとつ動かさずに、読んでいた文庫本に再び目を落とした。
 規則的な揺れを刻みながら走る電車。近くの風景は早く流れ、遠くの風景はゆっくりと流れる。眺めていると、思いのほかあっという間に電車は止まってしまった。
 下車しようと立ち上がろうとして、かれは思い立ったように鞄をまさぐった。使い古した黒い革の長財布を取り出してどこまで行けるか中身の金額を確かめる。終点は港町である。

 五、成長

 休日の朝というのはなんだかどきどきする。子どもたちを連れて月に一度は遠出をするのだが、毎回同じようにどきどきするのだ。ふたりの姉弟も存分に楽しんでいるが、それ以上にぼくも楽しんでいるのである。
 それは子どもたちの成長を楽しんでいるともいえるのだが、やはり本質的な部分が幼い頃から変わっていないのだろう。暇さえあれば自転車で遠乗りをしたり、線路沿いにどこまで歩けるかを試したりするタイプの子どもだったので、ふたりと一緒にアスレチックに登ったり、シートを広げて弁当を食べたりするのはたまらなく楽しい。それは大学の登山部で知り合った妻も同じようで、すっかりアウトドアな家族になってしまっているのだ。
 今日の予定は、県境にある林檎園で林檎狩り。平日とは違って人もまばらな電車に乗り込むと、そこに乗り合わせた人がみんな、休日のはじまりにそわそわしているような雰囲気だ。それを感じ取ってか、息子が楽しそうにきゃあきゃあと騒ぎ出したのだが、この春小学校に入学した娘が人差し指を立てて「しー」と叱る。ぼくと妻で、思わず顔を見合わせて笑った。

 六、不思議空間

 ラッシュアワーの渋谷駅は、相変わらず酔いそうなくらいの人ごみでごった返していて、うんざりする。うんざりするのだが、この電車に乗らなければ出社できないのだから、しかたなく乗り込むのである。
 まさに人「ゴミ」だなあとわたしは思った。掃いて捨てるほどの人間がここに密集しているのだ。それだけで、変な気分だった。もっと大きな生物になってこの光景を見たら、さぞおもしろいだろう。
 それでいて、この狭い空間に居合わせた人々は何の接点もない。あえて言えば、みなスーツや制服を着ていて、毎日のようにこの電車に乗っていることが接点かもしれない。新聞や本を読んでいたり、携帯をいじっていたり、手帳を見ていたり、流れていく高層ビルを眺めていたり、それぞれがてんでに過ごしている。わたし自身も特に接点を持ちたいわけではないし、それは誰にしたって同じことだろう。
 不思議な空間だ。ばらばらの朝の空気をまとめて乗せて、この長細い空間はぐるぐると回り続けている。それは今日だけではなく、これから何日も、何ヶ月も、何年も変わらないのだろう。
 もしかしたらこの中に同じことを考えている人がいるのかもしれないと思い立って、わたしは小さく笑った。

 七、再会

「由加! 由加じゃん!」
「さなち! うわあ、おはよう! ひさしぶり!」
「何ヶ月ぶりだろ。いつもこの電車?」
「ううん、今日は一限が休校だから」
「そっかー、普段は会わないもんね。あたしはいつもこの電車だよ」
「ん。仕事はどう? やっぱり大変?」
「んー、まあまあね。けど恵まれてる方だと思うよ。服装も自由だし、出勤はこの時間だし」
「でも電車通勤って大変じゃない? 学生は電車が遅れたら遅刻の言い訳になるけど、社会人ってそうはいかないもんね」
「まあね。そこはうまくやってるよ」
「すごいなあ。なんか、同級生が働いてるのって変な感じ」
「そう?」
「だって、わたし、自分が今働けって言われても絶対無理だもん」
「あはは、そりゃ大学進学って決めてたからだよ。あたしは逆に、もう勉強なんてできない」
「どっちもどっちだねえ」
「そういうこと」
「多田野もおんなじ学科だっけ」
「そうそう、あと学部は違うけど、エリーも N 大だよ」
「ふたりとも元気?」
「うん、元気元気。ときどき学食で会うよ」
「へー、いいなあ学食。大学の学食行ってみたい」
「昼休みに遊びにおいでよ。みんなに声かけとく」
「今度時間ができたら連絡する!」
「やった! 楽しみにしとくよ。 D 大の椎ちゃんにも声かけて、みんなで恋バナしたいねえ」
「いいねいいね、卒業旅行以来だ」
「だねー。あのときはバラけても頻繁に会うような気がしてたのにねえ」
「すっかり御無沙汰だね」
「去るものは日々に疎し、ってならなけりゃいいけど」
「おー、さすが女子大生、難しい言葉を使いますねえ」
「もー、なに言ってんだか」
「あはは、女子大生って言いたかっただけ」
「なんだそれー」
「あ、あたしこの駅で降りるんだわ」
「そっか、結構近いんだね。もうちょい話したかったなあ」
「また学食行くときにね」
「うん、そだね、楽しみにしてるよ。仕事頑張ってね」
「おー、今日もばりばり働いてくるよ。またね」
「うん、また今度ね」

 八、過去

 年が明けてから急に冷え込む日が続くと思っていたら、とうとう昨日の夕方から雪が降りはじめた。それは夜が明けてもやむことなく、見慣れた景色はすっぽりと雪の下に埋まってしまった。おかげでダイヤはすっかり狂い、普段より三十分近く遅れていつもの電車が来た。
 もっとも、かのじょは常に授業より一時間早くに学校に向かい、朝から自習をしているので、今日はその時間が三十分に減るだけのことだ。しかしながら、世の中の全ての人がそんな過ごし方をしているはずもなく、電車の中はどことなく不機嫌な空気が充満していた。苛立ちをあらわにして腕時計とにらめっこをしている人も少なくない。
 かのじょはそんな車内の人物を次から次へと見回しながら、社会人ならば予期される事態は避けるべきだろうと内心で毒づいていたのだが、つとその視線が一点で止まった。ドアの前に立ったひとりのおとなしそうな女子高生がじっとガラスの向こうを見つめている。両手を制服の袖から覗くセーターの中にしまい込み、グレーの厚いマフラーで口元まで覆って、外の景色を焼き付けんばかりに見つめているのである。目が悪いのか、僅かに目を細めているせいで、睫毛の奥で瞳の色がいっそう濃くなって見える。
 つられるように視線を窓の外に動かすと、そこには一面に広がる真っ白な景色が広がっていた。そういえば、こんなに雪が積もるのは何年ぶりだろう。空には厚い雲がかかって、心ばかりの雪がいまだに降り続いている。あの女子高生は、この色のない世界を、実にいきいきと踊るような瞳で捉えていたのだ。
 かのじょはひとつため息をついた。それは他の多くの人々に対しての呆れだとか、この女子高生への感嘆だとか、自分自身への落胆だとか、そういう感情が全て入り混じったものだった。暖房が効きはじめて間もないせいか、かすかに白く濁って、すぐにほどけた。
 雪が鬱陶しくなったのはいつからだったか。
 朝起きて、眩しいくらいの雪景色が広がっていたのを見たときの、あのわくわくする感じをすっかり忘れていたのだ。
もう一度その女子高生の方を見たら、空いた席を見つけて窓に背を向けて座ってしまっていたが、その横顔に向かってかのじょは小さくありがとうと呟いた。この電車にいる全ての人だって、かつてはこの銀世界を喜んでいただろうに、それを思い出せたのはかのじょひとりなのだ。
 手足の指先がすっかり冷え切っているというのに、すっかりあったまったような気分になって、かのじょはマフラーを少し緩めた。

 九、閉塞感

 寝不足のせいだか知らないが、朝起きたら左目だけがえらく腫れていて、触れると痛いしコンタクトもうまく入らないしで辟易してしまった。とはいえ、それを遅刻の理由にするのもなんとなく悔しくて、ぼくはただ謝るしかできなかった。
「…ごめん」
 まゆはちらりとこちらを見た。その視線が不機嫌さを訴えている。誘ったのはぼくのほうなのだから当然だろう。
「ごめんって」
「いいよ」
 溜め息つきの返事にひとまず安心した。とりあえず会話はしてくれるらしい。なにか気の効いたフォローをしておかないといけないのだろうが、生憎と頭の回転が遅い。ぼくはちいさくなって頷いた。
 乗り遅れてしまった電車はすっかり混んでいて、隣の人と肩をぶつけながら吊革につかまっているという具合だ。朝早くからゆったりと出かける予定だったのだが、すっかりそれも狂ってしまった。
 周囲の話し声に囲まれながら、ぼくらはだんまりくらべをしていた。まゆは自分から話そうとしないし、かといってぼくも何と話しかけたらいいものか分からないので、距離こそぎゅうぎゅうに詰まっているものの、なんだかとても遠くにいるような気分になる。せっかく話してくれると分かったのに、自分が不甲斐無くてまた小さくなる。
 早くこの閉鎖空間から抜け出したい。そうしたら、何か話しかけるためのきっかけを見つけられるような気がするのに。

 十、逆

 朝日がとんでもなく目に痛い。昨晩一体どれくらい飲んだかはすっかり忘れてしまったが(そもそもチャンポンだったし)日が変わったあたりでカラオケに向かい、三時間いっぱい歌ったあと正俊の家で麻雀をしたことはちゃんと覚えている。五時前にはたぶんみんな寝てしまったはずだ。目が覚めると七時半を回ったところで、だらだらと牌を片付けたり朝のニュースを見たりして、九時過ぎの今、ようやく帰路についたところだ。
 春休みなので、ここのところ平日でも平気で飲みに出かける。週に一度はどこかの飲み会だとか、友人同士で居酒屋だとかに出かけていって、そのたびに二日酔いになるほど飲んでいる。
 昨日もまた然りで、いい加減アル中になりはしないかと、和史は重い頭で考えた。頻繁に欠伸をしながら吊革にもたれるようにしてつかまっているかれを、スーツ姿のサラリーマンがうらめしげにねめつける。和史も分かってはいるものの、全身のけだるさのせいで対抗する気力も湧かない。
 普段のこの時間であれば、逆向きに乗っている電車で家に帰るというのは、なんだか不思議でもあり、またちょっとだけ悪いことをしているような楽しさがあった。アルコールが残っているのか、思わずにまりと頬を緩めて笑うと、かれを見ていたサラリーマンは眉をひそめて視線を他へ移した。

 十一、朝の電車

 か・たんたん、か・たんたん、か・たんたん。
 三拍子を刻みながら電車が走る。やがて駅にたどり着いて止まる。わたしは時計を見ながら窓から外を眺め、客がみな乗り込んだのを確認して、ぴるると笛を吹いた。
 か・たんたん、か・たんたん、か・たんたん。
 また電車は走り出す。三拍子の中に、様々なメロディを乗せて。

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