無題(01112007)
十月も半ばだというのに、この週末に限って夏のような日差しなので、金曜の夜になって鈴原はまとめていた荷物を全部詰めなおす羽目になった。紅葉しかけた銀杏が緑に戻ってしまうのではないかというような気温だ。そのままの荷物でゆけば、まず間違いなく滝川に半袖のシャツを借りることになるだろう。
翌朝、いくらか軽くなった荷物を抱え、鈴原はベルを鳴らした。三丁目のハイツ S 、二〇三号室。滝川は県外出身なので、そこで一人暮らしをしていた。ほどなくドアが開く。
「よう、入れよ」
ふたりは高校の同級生で、二年に進級するときに同じ理系のクラスになったのだ。類は友をなんとやら、という言葉とは縁のない、外見も性格もまったく異なるふたりだったが、どうもうまが合うらしい。いつの間にか行動を共にするようになっていたのだ。
今週も、特に何があるわけでもなかったが、月曜が祝日なのをいいことに、鈴原は二泊ほどすることにしたのだ。滝川も喜んで承諾した。
「いや、先に行くところがある」
そう言いながら玄関先で荷物を降ろすと、中から財布を取り出し、ジーンズのうしろポケットにねじ込んだ。別に持ってきた紙袋だけを提げて、残りの荷物を滝川に押し付ける。
「この近くに小学校の頃の担任が住んでんだ。つっても、会いに行くのは俺の意思とは無関係なんだけど」
ちらりと紙袋に視線を投げる。一冊の本と焼き菓子の箱が入っているのが見えた。
「と、いうわけで、昼飯の準備はまかせた」
「え」
反論しようとする滝川を遮るように手を上げると、鈴原はにやりと笑ってアパートの階段をおりていった。
道端に咲く彼岸花もいくらかしおれた様子を見せているというのに、道ゆく人は汗を拭っているというおかしな風景の中、鈴原もまた羽織っていた長袖の薄物を早々に脱いで歩いていた。あまりにも暑いので、途中で水菓子かアイスクリームでも買っていこうかと思ったのだが、どうにも川崎(と、小学校の頃のかれのグループは呼び捨てにしていた)のために財布を開くのは癪で、やめた。
そもそも、川崎に会いに行くのも嫌だったのに、とかれはひとりごちた。給食であまったデザートをひとり占めにするとか、女子に人気があったとか、そういう些細なことが積み重なって、どうにもい印象がないのだ。今思えばくだらないことだが、当時はそれがとても大きなことだった。
どうして俺が、と、かれは紙袋を恨めしそうに見やった。
「治くんの家って、三丁目だったっけ」
昨晩、荷物を詰めなおしているときに、母親がついでに、と画集を手渡してきた。名前も知らない画家のものだったが、川崎に借りていたのだという。聞けば、川崎の息子が妹と同じクラスだとかで、いつの間にか対教師から対保護者同士という関係になり、すっかり仲良くなっていたらしい。
「えー……」
面倒そうに返事をしてみたものの、にっこりと笑うばかりの母は有無を言わせぬ気迫がある。蛙の「親」もやはり蛙だ。
「あー、はい、わかりました」
憂鬱さにため息をこぼしているうちに、川崎の家の前までたどり着いていた。あやうく通り過ぎるところだった。庭付きの平屋で、年月を経た立派な家だ。チャイムを押して出てきたのは、少々髪の毛に白いものが混じり始めているとはいえ、十年前とほとんど変わらぬ川崎だった。
「おう、鈴原、ひさしぶり。お母さんから聞いてたぞ。でかくなったなあ」
声が大きいのも相変わらずだ。美術に興味があることさえ不思議に思ってしまうほど、体育会系という言葉が似合う。家の中に上がるよう示されたので、形だけでもと思って素直に従った。
しかし、思い出話をしていても(もっとも、話しているのはほとんど川崎のほうだったが)特にかれの嫌なところが目立つわけではなかった。今だから言える苦労話などされると、むしろ生徒のことを思いやるやさしい教師像が現れるので、鈴原は記憶との相違に困惑した。
「イメージだけだなあ」
思わずそう呟くと、川崎が首を捻った。
「いや、俺、小学校のとき、川崎先生のこと、あんま好きじゃなかったんですよ」
冗談めかして言い、はは、と小さく笑った。ちょっと恥ずかしさも混ざった笑みだ。川崎もにんまりと、声は上げずに笑った。大方予想はついていたのだろう。
鈴原のポケットから、携帯のヴァイブの音がした。多分滝川だろう。居間の掛け時計はいつの間にか十二時半を回っていた。かれは無視を決め込む。
「出なくてもいいのか?」
川崎が尋ねたが、鈴原は小さくひとつ頷いて、自分が持ってきた茶菓子に手を伸ばした。
翌朝、いくらか軽くなった荷物を抱え、鈴原はベルを鳴らした。三丁目のハイツ S 、二〇三号室。滝川は県外出身なので、そこで一人暮らしをしていた。ほどなくドアが開く。
「よう、入れよ」
ふたりは高校の同級生で、二年に進級するときに同じ理系のクラスになったのだ。類は友をなんとやら、という言葉とは縁のない、外見も性格もまったく異なるふたりだったが、どうもうまが合うらしい。いつの間にか行動を共にするようになっていたのだ。
今週も、特に何があるわけでもなかったが、月曜が祝日なのをいいことに、鈴原は二泊ほどすることにしたのだ。滝川も喜んで承諾した。
「いや、先に行くところがある」
そう言いながら玄関先で荷物を降ろすと、中から財布を取り出し、ジーンズのうしろポケットにねじ込んだ。別に持ってきた紙袋だけを提げて、残りの荷物を滝川に押し付ける。
「この近くに小学校の頃の担任が住んでんだ。つっても、会いに行くのは俺の意思とは無関係なんだけど」
ちらりと紙袋に視線を投げる。一冊の本と焼き菓子の箱が入っているのが見えた。
「と、いうわけで、昼飯の準備はまかせた」
「え」
反論しようとする滝川を遮るように手を上げると、鈴原はにやりと笑ってアパートの階段をおりていった。
道端に咲く彼岸花もいくらかしおれた様子を見せているというのに、道ゆく人は汗を拭っているというおかしな風景の中、鈴原もまた羽織っていた長袖の薄物を早々に脱いで歩いていた。あまりにも暑いので、途中で水菓子かアイスクリームでも買っていこうかと思ったのだが、どうにも川崎(と、小学校の頃のかれのグループは呼び捨てにしていた)のために財布を開くのは癪で、やめた。
そもそも、川崎に会いに行くのも嫌だったのに、とかれはひとりごちた。給食であまったデザートをひとり占めにするとか、女子に人気があったとか、そういう些細なことが積み重なって、どうにもい印象がないのだ。今思えばくだらないことだが、当時はそれがとても大きなことだった。
どうして俺が、と、かれは紙袋を恨めしそうに見やった。
「治くんの家って、三丁目だったっけ」
昨晩、荷物を詰めなおしているときに、母親がついでに、と画集を手渡してきた。名前も知らない画家のものだったが、川崎に借りていたのだという。聞けば、川崎の息子が妹と同じクラスだとかで、いつの間にか対教師から対保護者同士という関係になり、すっかり仲良くなっていたらしい。
「えー……」
面倒そうに返事をしてみたものの、にっこりと笑うばかりの母は有無を言わせぬ気迫がある。蛙の「親」もやはり蛙だ。
「あー、はい、わかりました」
憂鬱さにため息をこぼしているうちに、川崎の家の前までたどり着いていた。あやうく通り過ぎるところだった。庭付きの平屋で、年月を経た立派な家だ。チャイムを押して出てきたのは、少々髪の毛に白いものが混じり始めているとはいえ、十年前とほとんど変わらぬ川崎だった。
「おう、鈴原、ひさしぶり。お母さんから聞いてたぞ。でかくなったなあ」
声が大きいのも相変わらずだ。美術に興味があることさえ不思議に思ってしまうほど、体育会系という言葉が似合う。家の中に上がるよう示されたので、形だけでもと思って素直に従った。
しかし、思い出話をしていても(もっとも、話しているのはほとんど川崎のほうだったが)特にかれの嫌なところが目立つわけではなかった。今だから言える苦労話などされると、むしろ生徒のことを思いやるやさしい教師像が現れるので、鈴原は記憶との相違に困惑した。
「イメージだけだなあ」
思わずそう呟くと、川崎が首を捻った。
「いや、俺、小学校のとき、川崎先生のこと、あんま好きじゃなかったんですよ」
冗談めかして言い、はは、と小さく笑った。ちょっと恥ずかしさも混ざった笑みだ。川崎もにんまりと、声は上げずに笑った。大方予想はついていたのだろう。
鈴原のポケットから、携帯のヴァイブの音がした。多分滝川だろう。居間の掛け時計はいつの間にか十二時半を回っていた。かれは無視を決め込む。
「出なくてもいいのか?」
川崎が尋ねたが、鈴原は小さくひとつ頷いて、自分が持ってきた茶菓子に手を伸ばした。